昭和55年09月03日 朝の御理解
御理解 第31節
「信心する者は、木の切り株に腰を下ろして休んでも、立つ時には礼を言う心持ちになれよ。」
信心する者は木の切り株に腰を下ろしても、立つ時には礼をいう心持ち。要らぬもののように思うたり、邪魔なもののように思うたりするものに対してでも、本当は邪魔になるものでもなければ要らんものでもない。私にとっては要るものだ。私にとってはその邪魔になるようなものが、むしろ必要なのだというまぁ頂き方です。ですからお礼がいえれる。これは文男先生が先だって発表しとりましたように、例え事故が起こるとかあったとか、先ず自分が起きる、いわゆる自分が追突されたとか。
と言った様な時えも、決して相手からそのう賠償金を取らない、もう腹んなかは決めているね。あん奴がこちらへぶつかったんだと、そりゃもう当然車そでたからあちらからだん、いうならば修繕代を取ってもいいんだと。いうふうな一般の考え方ですよね。それがまぁ当たり前のようになっている。ところが文男さんの場合にはそうじぁない、もし追突されても取らんというのである。これはねぇ私はもう二、三年も前だったでしょうか、高橋さんが居眠り運転で、他の車に追突しなさった。
そしたらそこの運転手さんが下りて来てから、いいですよもういいですよち、いうちからとうとう取りなさらじゃった。世の中には変わった人もあるもんだなぁ、いうた事がありました。そりでもやっぱりお礼にいかにぁいかんけんで、何か持ってお礼にいかにぁんというても、まぁそれを辞退されたという事です。当然の事と今のやっぱり世の中ではそれは申しますけれども、結局まぁ文男さんにいわすれば、追突されたんだけれども、自分がそこに居なかったら、相手に迷惑かけなかったという様な考え方ですよね。
だいたいは本当はいうたらそれが本当です。こりぁもう本当に例え相手がなら、飲酒運転であったに致しましてもです。自分がそこに居なかったら怪我もしなければ追突も、だからそういういうなら、追突されなければならない、いうなら元はこちらにあるんだという頂き方なんです。もうこれは本当の本当の頂き方です。向こうから追突されたんだから、修繕代は貰うというのが本当なんです。けれども信心とは、結局本当の本当をいよいよ追求していくことです。
ですから生活の上にもそういう生き方が、身に付いて参りますとね信心のいうならば、本当の妙賀に触れる事が出来るです。もう必ず富貴繁盛になるですね。妙賀栄える富貴繁盛と仰るね。ところがなかなかそこまですっきりと本当な事を、分かっておるようでも分かってない証拠には、それだけのいわば実験をしきらん。そこに本当の実証が生まれてこないという事になるのです。もう少し進んだら例えばなら怪我をさせられたと、取り返しのつかないような事になったと、例えばしてもです。
めぐりのお取払い頂いて有り難しという事になってくるんです。「やれ痛や今霊験をという心になれよ」と仰る。木の切り株に腰を下ろしてもという事は、要らないものむしろそれは邪魔になるものにと思うても、それは私にとってはめぐりのお取り払い、私にとってはより本当な事を分からして頂くため、私にとっては富貴繁盛のおかげを頂くために、ここに妙賀を悟らしてもらう。喜びの妙に浸たらしてもらう。ただ自分の都合のよい事になったという事になったという事だけに。
お礼をいうのは皆んなおかげを頂いて、有り難いというけれども、分からない人はそれにすら気付かない事がございます。そこで神様は神様のおかげというものを、本当に分からして下さる事ために、様々な演出があるようですね。昨日吉井の何とかいったっけ、あの繁雄さん所のあのあれあんた方ん孫と同じ友達、馬田さん馬田さん馬田何とかいったねが親子連で昨日お礼に出てから、先達ってから娘さんが修学旅行であった。
この人そこまでバスに乗っても酔う訳乗り物には絶対乗れない。それでもやっぱり修学旅行ですから行きたい。それで親子でお願いに参りました。それでならお願いしとくから、御神米頂いて行きなさいというて渡しましたら、いつも常用している船車に酔わない薬がございます。それを持っていったがよいでしょうか。「そうげなもんでん持って行きなさんな」ち私が申しました。
そげなもんどん持って行きよるとそりこそそりば飲まなんごたる事になるばい。そうですかというてまぁ御神米だけで、おかげで一週間余りの旅行は、もうそりこそ酔おうともしなかったというて、お礼に出て来た。そしてその学校の先生が酔う事知っちゃるもんですから、「飲んどかんでんよかかのんどかんでんよかか」と言うて、ずうっというて下さったけれども、いいやもう要りませんち言うてから、何か神様ば裏切るごたる気色のしたから、その先生に言われたけれども飲みませんでした。
というておかげ頂いたという、まぁ昨日のお取り次ぎさせて頂いた一駒なんですけれども、そりぁやっぱりいつも飲みよる薬があるならば、神様にお願いしとくけん持ってだけ行ってよかたいというとったら、どういう事になるでしょうね。神様のおかげで酔わじぁったばってん、やっぱあの薬も効くた効くというふうに、おかげが半分になるでしょう。そういう意味でです。私はいつもここで皆さんに申しますように、薬を飲んじぁならん、医者にかかっちゃならんじぁないけれども、本当のことが分からにぁいけん。
もう本当に言うならば薬は毒だと、こう分からして頂いて為には毒薬変じて薬になるようにという、祈って頂けというふうに申しますけれどもね、私は真実な事を分からせるための、言うならばお取り次ぎだよと言うて、昨日研修の時皆に話しました事でしたね。おかげでおかげをおかげと、本当に思わせて頂くための精進と、又はそういう神様の御演出とがあるという事。はぁこの事によっていよいよ神様を信じさせてもらう。この事によって、いよいよ神様を有り難いと分かる。
難は霊験と仰るが本当に難は霊験と、いう事を分からして下さるための、この難だというふうに分かって、信心の稽古をさせて頂くとですね。だれでも難儀は嫌ですけれども、その難儀のおかげでという時お礼申し上げる時に、本当の意味においての木の切り株に腰を下ろしても、立つ時には礼をいう心持ちという事じぁないでしょうかね。そりぁもう自動車に乗っても汽車に乗っても、いうならねそのう汽車にでも、いうならば自動車にでもお礼をいわんならん。お便所を使うてもお便所に対してお礼をいわんならん。
履物にでもお礼いわんならん。おかげで足を汚さんですみましたね。本当にもう雨が降って雨が降って道が悪うなってから、もうというてあのうまぁ挨拶の様に、いわれた方に対して私が「ばってん傘のおかげで濡れんですんだじぁないですか、長靴のおかげで足を汚さんですんだじぁないですか」て言うたら、「本にそげんいいなさりゃそげんですね」とまぁいうような、お取り次ぎさせて頂いた事がございます。そげんいやそげんですねというものが、実際自分の身に付いてしまう事が、私は信心だと思うですね。
どうぞ。